最後に

 ヒマラヤトレッキングの方法(シェルパ、ポーター、キッチンスタッフの3層構造)をみると、西欧、とくにイギリス風な生活様式が残っており、かの登山家たちが高地民族シェルパの協力を得ると共に、彼らをどのように躾、今あるようなトレッキング方法を作り上げたかが解り興味深い。おそらく西欧人の食住に関する生活の原形を見ることができるのではないだろうか。階級制のもとにある家政(執事、下僕、コックなど)に携わる男性の使用人制度、それに伴う彼らのモラルまでが受け継がれている。良い悪いは別にし、また習慣的なもの、職業的なものを考慮したとしても、彼らのけじめ、謙虚さ、献身さにはある美しさを感じる。古風なものへの郷愁でもある。

 次におそらく山岳地帯であるために、開発という文明化が遅れているのだろう、いまだに人力や動物(つまり生き物)が生活の大半を担っていることに驚く。運搬や移動に車やバス、宿泊や食事はホテルやレストラン、洗面、風呂、トイレなどサニタリーは自動水洗という文明化に私達は慣れきって、それが基準で、快いと思っている。そしてそれを支えている膨大な物的、人的要素は表面に現れず、従って結果だけを消費しているということに気づかない。

 ヒマラヤトレッキングはヒト一人が生きていく(歩いて、食べて、寝る)にはどれだけのものを必要とし、どれだけの人に支えられなければならないかが、この目で確かめることが出来る。文明という名のもとに水面下に隠れてしまったものが姿を現すのである。スタッフの担う運搬という過酷な労働、粗末な衣服に胸を突かれる人、衛生状態を懸念する人、あるいは「大名行列」と批判する人もいる。しかし「小綺麗で自立した文化生活」は文明の結果だけを享受し、違った搾取のうえに成り立っているのではなかろうか。複雑に入り組み、目に触れず、直接手を下さない形で他者を痛めつけているのではなかろうか。便利さのために消費されたものは“ゴミ”、再生不能な物質を残すことが、あるいは資源を食いつぶしていることが今となっては判ってきた。

  ヒマラヤトレッキングは少なくとも今のところは人も(ときには動物の力を借りるが)、モノも限界まで力を出し切り、あるいは使い切り、再び土に還り、再生されていくことを見せてくれる。近い将来便利という名のもとに持ち込まれるかも知れないカップラーメン、ペットボトル、食品の包装や多目的のビニール袋がネパールの山野に舞わないことを願わずにはいられない。トレッカーは心しなくてはならないとおもう。 トレッキングスタッフ、山村の人々、子供の“笑顔”の素直さに、私のなかにある貧しさと豊かさについての思いこみは見事に裏切られてしまうのである。(06/5/14完)
(文責:R 写真:Q・KY)


アンナプルナ紀行

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