ブータン式トレッキング


 これまで3回、ネパールはヒマラヤ山麓のトレッキングにいった。その経験からブータンでも荷物の運搬はポーターが担い、シェルパとキッチンボーイによってトレッキング隊が構成されるのかと思いこんでいた。しかし当然ながらブータンはネパールではなかった。シェルパもいない。ポーターもいない。テント類、キッチン用品、ガスボンベ、食料、個人装備など山中で必要な生活用品全てを運ぶのは馬(ラバ?)であった。

 トレッキングが解禁された当初ネパール式トレッキングを手本としたが、ポーターに駆り出される農民が農作業に支障を来すと国に訴え、それが認められ馬を使う方法に変えたらしい。
 トレッキングのスタッフとは終始行動を共にするガイドと、コックも含めた、キャンプ地の食住の世話をしてくれる人たちを指すようだ。

 キャンプ中の一日は先ずスタッフが各テントに持ってきてくれる朝のお茶、その15分後の洗面器とお湯で始まる。スタッフと馬は昼食を準備し、キャンプ地を畳んでから、私達より1時間半ほど遅れて出発し、昼頃には次ぎのキャンプ地に到着し、荷を下ろした馬は、裸馬となり大抵水辺に放たれて自由に草をはんでいる。一方馬方も交えてスタッフはテントを設営し夕食の段取りをするとしばらく自由の身らしい。こうした人の働きと無心に草をはむ馬たち存在は自然の風景に和やかな、不思議なくつろぎ感をあたえてくれるのだった。

 馬は一頭だけ、怪我人や病人が出た時とランチのために、スタッフの一人に曳かれて私達に従う。少し離れて他の道をたどるのだろうか時々姿が見えなくなるし、ランチ時に給仕をしてくれた別のスタッフは何時の間にか居なくなっている。彼のペースで先に行ってしまうのだろうか。ネパールのトレッキングスタッフのように、サーダー、ガイド、コック、キッチンボーイ、ポーターのようにはっきりした役割分担や役割階級(?)は無いようにみうけられた。

 今回私達6人のために、馬15頭、馬方3名、スタッフ4名が準備された。 別にカメラ等を持ってもらう個人ポーターを2名頼んだ。

裸足の王様、無冠の王

 ハのリスム・リゾートの食堂には初代から現在の第五代国王までの写真が掲げてある。現国王は顔だけで何をお召しになっているかよく判らなかったが、その他の国王は民族服“ゴ”を着た全身像であった。私の目は初代国王(1907年即位)に釘付けとなった。頭には王冠に代わる立派な帽子を被られ、“ゴ”も明らかに地紋のはいった絹地である。しかし、足元を見ると、なんと裸足で、しかも地面にそのまま立たれているのだ。他の方々は王者に相応しい縫い取りのある絹の長靴“ラム”を履かれている。キプチュさんに尋ねるとブータンでは昔はみな裸足で彼も1970年(?)以前は裸足だったそうだ。王様といえども百年前は例外ではなかったのだ。ちなみに3代国王からは王者を表す帽子は被られていない。国王自身が廃止され今に至っている。これら歴代王の帽子、衣装、履き物はティンプーの国立博物館に展示されて、実際に見ることが出来る。

白いケシを訪ねて  
 
 ハの固有種白いケシ、メコノプシス・スペルバに出会えたのは、トレッキングの最終日、5日間歩きつづけた最後の日であった。幾つもの峠を越え、谷を渡り、漸く生息地に辿り着いた。しかしそこからハへの帰路はたった一日の行程であった。メコノプシス・スペルバだけを目的に効率よく歩く日程も可能であろう。事実そうした日本からのツァーもあった。来る日も来る日も“白いケシ”の生息地を求めて歩き続ける私達はフっと疑問を感じてキプチュさんに尋ねた。「勿論ショートカットしてダイレクトに行くことも出来ますよ、このトレッキングよりもっと時間をかけるコースもありますよ」といって笑った。

 白いケシは本当に美しかった。棘に覆われ、矮小の青いケシ、メコノプシスの抜けるような空色の青さは神秘的な夢想を誘うが、大輪のメコノプシス・スペルバは棘も目立たず(あるのかしら)葉も薄緑で、大らかで気品に満ちて圧倒する。

 白いケシと出会え、第一の目的は達せられた。しかしこの旅が与えてくれた本当の喜びは白いケシとの出会いだけではないようだ。峠を越え、奥へ奥へと山中に入って行くに従い、大地は果てしなく大きくうねるように広がり、谷は深く森林に沈み、あるいは水を湛えた湖となり、草地は大小の花で覆われ、庭園の如くである。ただただ圧倒されるばかりのシャクナゲの斜面。谷を回り込むたびにシャクナゲの斜面は表情を変える。この壮大な斜面とシャクナゲの個々の美しさを同時に写真に納めることは不可能である。白いケシへの期待はうすれることはなかったが、いつしか大自然の中で刻々と捉える「瞬時」の美しさに心を奪われ、広大な天と地に身を委ねる安らぎに過去も未来も一つとなって「今」しか感じない。キプチュさんは低く、唄うように「経」を唱えながら歩く。

 壮大な自然には、また至るところ死が潜み、「今」はすぐさま「無」に変わりうる。「経」を唱えるのは「今」の私と「無」となる私との境を確かめることかもしれない、と彼の声を聞きながらおもう。

 万人を直ぐに魅了する名峰に囲まれた風景もあるし、征服欲を掻き立ててやまない鋭峰を数々有する国もある。しかしブータンの山々は高地の放牧地を歩き、ヤクマンと犬に出会い、遠望する峠に馬の影を捉え、谷の向こうに今夜の宿営地を認める喜びを与えてくれる。原始に近い風景を残しているようでいて、そこには人間の、そしてそこに息づく命の温もりも感じることの出来る風景なのだ。

 白いケシ、メコノプシス・ スペルバはハの固有種である、ハの大自然の摂理の中に優雅に、しかし毅然と立ち尽くしているのである。

 7日間のトレッキングを終わり、リスム・リゾートに戻る車に個人ポーター、ルンジと ナゴも便乗した。ナゴは自宅の近くで降りた。持ち物は傘一本だけであった。私達は彼に手を振ったが、彼は振り返ることもなく行ってしまった。その後ろ姿に「これぞ究極のシンプル・ライフ!」と私達は賞賛とも羨望ともつかぬ声をおもわず上げたのだった。(文責 千石玲子)

なお紀行文中の標高標記はGPS高度計と気圧高度計の両方用いたが、気圧高度計による数値には*印を付した。

参考図書:今枝由郎 『ブータンに魅せられて』2008年3月 岩波新書
地球の歩き方‘07〜’08『ブータン』 
ブータン