最後に ブータン、その変化
ブータンの変化
 一回目のブータンは、小さな国ながら、世界の注目を集めたGNH(国民総幸福)を目指す国として興味があった。この数年ブータンは民主化にむけて着々と準 備、昨年3月には初めての総選挙、7月憲法発布そして 11月の新国王の戴冠式をへて国王親政から立憲君主制に大きく舵切りを した。ブータンに関心を持つ知人は帰国した私に興味津々の目を向けた。しかし・・・民主化の影響はそうはやくは現れないし、多分それは都市部からはじまる。農村部、山間部の生活や人々の意識はたやすくは変わらない。変化の兆しといえるかどうか、わずかに何軒かのパロの物産店の経営者が替わり、古い家が2軒取り壊しの最中ではあった。

 ペマさんの話では、戴冠式の影響で昨年は海外からの観光客(トレッカーも含め)が多く、休む暇がないほど忙しかったそうだ。それに反して今年はリーマンショックでアメリカ人のキャンセルが続き観光客は激減、今や日本人が一番多い。そして5月末には以前にはなかった大雨が降り、河川が氾濫、橋が流され、人もヤクや野生動物も流されて沢山死んだという。静かなブータンもグローバル化した報道、金融危機、地球温暖化には否応無しにさらされているのだ。

優しいスタッフた

  ペマ・シンさんは30代半ばだろうか、少しメタボだが、精悍で、エネルギーが満ちあふれている。日本語は出来ない。花より鳥に詳しく、はじめは鳥ばかり探していて、すこしがっかりさせられたが、だんだん花にも興味を持ちだし、とりわけアツモリソウを見たときの彼の反応はおもしろかった。はじめて写真を撮り、それからアツモリソウの袋の上に被さる萼片をめくって、袋の中をしげしげと覗いたのだ。
 世話係のサンゲだけが、日本語が少し出来る。そして語彙や表現をもっと覚えようと熱心で、繰り返してはすぐ使ってみる。私達も一所懸命教えてしまった!  個人ポーターたちは日本語ができないこともあるがとてもシャイだ。笑顔が優しく、サービス精神が旺盛だ。彼ら同士も互いに助け合うところがあって、みていて気持ちがいい。

  ペマ・ジンさんは一番年長者、私達と同年代だが、みんなで“爺や”と呼んで親しんだ。花の撮影には邪魔な小枝や枯れ草を除いてくれたり、ストックを持ってくれたり、黙々といつも側に居て、なにかと世話がいいのだ。妻へのお土産か?ヤクサでコマ(ブローチ)を買っていた。

 ペマ君はまだあどけなさが残る少年で、眉間を少し寄せ、興福寺の阿修羅に似ている。私達に従ってゆっくり歩くのが苦手らしく、退屈そうに少し先にいっては待っている。

犬たち
 パロの街の犬の多さにはやはり驚く。あっちにもこっちにもうろうろ、道の真ん中でごろり。ロータリーの草むらにちょこんとお座りしていたり、彼らにとって町中が我が家のような振る舞いである。餌は誰がやるのだろうか、多分彼らは自分で調達しているのだ。子犬もお腹を空かしている。プラスチックのゴミを両足でしっかり押さえ込んで一心にこびりついたものを舐めている。昼間は彼らは本当に静かだ。ワンとも言わない。夜は仲間を募ってかけずり回るのだろう、あっちでこっちで吠えまくっている。

 村の道で、十五、六匹の生まれたばかりのよちよち歩きの子犬が私達についてきた。抱き上げたいのを我慢するのがやっとだった。連れ帰ってやりたかった。いったいこのうちの何匹が生き残るのだろう。一週間後同じ道を通った時、出てきたのは五、六匹だった。沢山生まれて、強いものだけが生き残る。自然体で生きるということは、そういう過酷さも受け入れるということかもしれない。
 ブータンでは平均寿命はそう高くはないらしい。どのように生き抜くのか、幸せと感じながら。GNH(国民総幸福)を目指す国は訪問客にそう問いかける。このさりげないが意表をついた国のあり方に、近代化を善と信じてきた人たちは少し立ち止まり我が身を省みるかもしれない。

ある出来事
 トレッキング最後の晩はいままでのリラックスした雰囲気に、やり遂げた安堵感と馴れ親しんだスタッフとの別れを惜しむ気持ちと、少しの緊張が加わる。緊張、それはリーダーと会計係のものだが、最後の仕事、スタッフへの感謝の言葉と、お礼が残っているからだ。前の晩から柴田さんは釜口さんと共にひとりひとりに手渡す、日本から持参のきれいな封筒に中身を何度もたしかめ、後藤さんは英語のスピーチを考えていた。
スタッフはケーキを焼き、踊りを披露してトレッキングの終わりを祝してくれた。
 
 踊りの輪が解け、夕闇が迫る。降り始めた雨のなか、スピーチを終え、スタッフ全員にお礼を手渡す。
 ・・・ペマさんが、まだ一人もらってない、という。あり得ない!と誰もが思いつつも、大あわてで、そこは後藤さん、ご自分の財布から追加したのだった。みんなの思いは複雑だった。悪意があったとは思えない。うす闇のなかで、思わぬ雨に打たれ場は混乱していた・・・誰もがこの“出来事”を胸にしまって、何故かひとこともこれについて誰も何もいわなかった。

 翌日、みな機嫌良く最後の昼食を摂り、それが終わろうとしていた。ペマさんがスタッフ一人を伴い、「昨晩は大変申し訳なかった。間違って一人余分にいただいてしまった」とわびながら、一人分を差し出した。一瞬私達はぽかんとして、それから目元が急にゆるみ、それを受け取ったのだった。ペマさんは真剣な顔で、何度も詫びたけれど、みな黙ってうなずき微笑むだけだった。


透き通るような陽光を浴びて静かに広がる山野を身近にし、動物たちと分かち合う命の営みは人から過度の欲望を削ぐのかもしれない。 (千石玲子  記)

 
 
BHUTAN2 2009