まとめ
 
 ブルーポピーを求めてランタン谷を訪れたメモ書きの日記を整理しながら、いかにその行程が長く、いろいろな経験をしたかあらためて驚く。その内容は複雑で一口では言い表せない。しかしあえて拙い経験からランタンを表現してみれば、勿論花の豊かな谷ではあったが、その前に激流の谷であり、そして静寂の谷であった。
花の谷

 谷間全体に咲き乱れる多種多様な、大小様々な野の花、アネモネの白、ピンクのタデ科の花、サクラソウ、黄色のキンポウゲを基調に、その間をオレンジ色、紫、黄色の花々が彩る。そして3500m以上で局地的に咲くランタン谷の女王ともいえる黄色いケシと名花プリムラ、そして紫のアヤメの群落。また風にそよぐ野生のピンクと白のバラ、牧草地一面の小型シャクナゲ。私はとりわけ一重の中輪のピンクのバラの艶やかさとびっしりと棘に覆われ、硬く細かな葉の中に咲くやや小ぶりの一重の白のバラの清楚さに惚れ惚れとした。ピンクのバラは“上げそめし前髪の乙女”の風情、ネパールの初々しい乙女のようだ。白バラは可憐だが、葉陰からじっと見つめる意志の強そうな乙女だろうか。
静寂で壮絶な谷
 
 観光シーズンを外れ、トレッッカーの少なさがこの谷を静かにしていた。しかしそれだけではない。抜けるような青空に5〜6000m級の山々やランタン・ルリンが姿を現したかとおもうと、さっと霧がまき瞬く間に山々は隠れ、あるいは雲に覆われてしまう。こうして広大なU字谷は立ちこめる霧や重い雲の下となり、視界は遮られ、滝の落下音や流れの音が遠くに聞こえる以外何も聞こえない。そして点在する集落は文字通り点の集まりにしか見えず圧倒されるばかりの岩稜を背景にして、ひっそりと佇んでいる。タルチョが山頂や険しい山腹に懸けられ、激流の岸辺にはためく。村人の自然への脅威を鎮めようとする祈りがひしと伝わってくる。キラキラ輝く陽光の下で精一杯花弁を開く花も、霧のなかでぼんやりと見える半開きの花も、畑で働く村民も放牧のヤクや馬も私達も全てがランタン谷という生と死を包括する宇宙のなかに吸い込まれ静寂だけが支配しているようである。
ランタン・コーラ

 ランタン谷を貫くランタン・コーラは人間で言えば背骨、バックボーンのようなものではないか。花の谷に辿り着くためには薄暗い照葉樹林帯のなかランタン・コーラを遡る。轟音をあげ、飛沫をとばし、逆巻く激流、落ちたら最後命はない。この激流を知らなくても、素晴らしいランタン・ヒマールと可憐きわまりない花々だけでも十分ランタンを楽しむことは出来よう。しかしランタン・コーラの激流を知らなければランタン谷を覆う静寂、村の佇まい、花々の美しさの意味までを問うことはないようにおもう。ランタン谷が美しいと感ずるとするなら、それは“死”の縁にたって初めて“生”の意味と輝きを知るように、ランタン谷は“死”を突きつけながら“生”の優しさを見せてくれているからではなかろうか。

 薄暗い樹林帯からゴラタベラの台地にでて、激流が目の前から遠のき、轟音が微かとなっても、トレッキング中この激流が目にちらつき、轟音が通奏低音のように耳に響き、“死”のイメージが消えることはなかった。  君臨するかのように林立する黄色いポピーも名花の名にふさわしい楚々としたプリムラ・シッキメンシスもどこか寂しく、その美しさは儚げで、群生する様はこの世のものとは思えないのだ。

 ブルーポピーの生息地には結局たどり着けなかった。しかしナムゲルが写真に撮ってきてくれたブルーポピー(4600m地点)をながめる時、そのブルーの美しさもさることながら、花の大きさに比して矮小で刺々しいその姿は過酷な生息地を思いやらずにはおかない。“死”と“生”が一輪の花の中に凝縮している。このブルーのなかに彼岸が透けて見えるといったらいいすぎだろうか。
人、自然、生き物

 今回の旅の思わぬ収穫は“人”(あるいは生きているもの)との出会いである。行き会ったトレッカー達も少ないせいか皆にこやかだった。出来る限り記しておいた。しかし村人と話したり、彼らの居住部分(一部屋に台所、居間、寝間)や普段の衣服を見せて貰ったり、バザールの食堂に入る機会があったことはネパールのごく“普通”の人と生活に触れられ興味深かった。村人達の屈託なさに驚かされる。警戒心、取り繕い、おもんばかりといった“対人”意識がない。彼らから見れば人との出会いは大きな時空のなかの一瞬であり一点にすぎないかのようだ。あるがままなのである。犬までがそうであった。シャブル・ベシからついてきて、ランタン村でいなくなった犬の“黒”。下の口の周りが白毛で縁どられ、右目が赤く充血していた中型の黒犬。野良犬の卑しさも哀れさもない。飼い犬の甘えも傲慢さもない。一言も発せず(吠えず)、行儀よく、邪魔にならず、分を弁え、甘えず、自分の身は自分で守り、頑なではなく自然な信頼感を見せる。ランタン村から先には行かないことにきめているのだろう。無事シャベル・ベシに戻ったことを祈る。

 そして子供達。特に子供らしい純真さを保ちながら健気に働く少年達や野に遊ぶ子らとの出会いは清々しく少し哀しい。彼らを見ながら今年100 歳近くで亡くなられた友人の父上がしきりと思い出された。幼くして父を亡くし母親共々住み込みで働き、郷里の篤志家の援助を受けて学校に行き、その道の最高峰を極められた。生涯信仰の人でもあった。子供らの潜在能力を引き出せる環境とは、大人とは何か、と考えさせられる。精一杯生きる子供らの行く末に幸多かれと祈らずにはいられない。

 自然が豊かに残る土地に貧しさが存在しないとしたら、そこは一種のユートピアである。そうした意味でネパールの山村はけっしてユートピアではない。しかし私にとってネパールの旅はヒマラヤの過酷な自然のなかで生きている人達が“文明”あるいは“物質的豊かさ”によって忘れてしまったことを思いださせ、教えて呉れる旅であり、彼らへのオマージュの旅でもある。
変化

 ネパールの社会、シェルパやポーターの気質、マナーも少しづつ変わってきたようにおもう。初参加のナムゲル(24歳)は3ヶ月カトマンドゥで日本語を習い、ヒマラヤビューホテルでコック、その後主にヒマラヤ街道で日本人トレッカーのシェルパを年に6回ほど務めているという。ランタン地区は初めてで、ルクラから飛行機できた。携帯は着メロで、トレッキング中も音楽(幸いネパール音楽であったが)をかけることがあった。

 ポーター達の中には学生もおり、雨期休み(?)を利用してのアルバイトだそうだ。過去二回のトレッキングではポーターは客の前に公然とは姿を見せなかった。いわば影の仕事であった。今回、先に着いた彼らはストーブの周りに集まり、私達が到着しても席を立たなかった。夜は食堂の椅子などに寝ているらしい(ランタン谷の慣習かもしれないが)。西洋人とシェルパによって作り上げられてきたトレッキングの形態も時代の波に晒され変わって当然であろう。貧しさという縛りが解かれ、自由と物質的豊かさを得た時、どのようなモラルの元に人間は生きていくのか、少し先を行く私達にもまだ分からないのである。

2007年10月 (文責:R 写真:Q)  本稿はRの紀行文に、Qさんの記録文を一部参照し書き直した。 参考文献:高橋佳晴著 ヒマラヤランタン花紀行 誠文堂新光社 1996
参考地図:Langtang Gosainkund&Helambu 1:140000 Pocket map Himalayan MapHouse Pvt.Ltd. Kathmandu,Nepal. 

 追記:文中の植物は写真にとった植物の一部であり、それ以外にも見過ごしたものが沢山ある。またチェルコ・リは高橋氏が記述されておられないので氏の著書から花名を検索することができなかった。
勇気を奮い起こして参加したQさんの感想

 結構ハードなトレッキングだったが、とてもユニーク であった。 カトマンズから9時間ものガタガタバスに揺られて、ランタン・コーラの谷底まで行き、そこから(1460m)ランタン村(3500m)までの長いアプローチ。森林地帯の轟音を立てて流れている激流のランタン・コーラ沿いを徐々に登っていく様子は、上流の氷河から流れ落ちているのだ、と想像しながら歩き、渓谷の深さを知るのに良い体験であった。

 確かに、この辛いアプローチを省略してヘリコプターで飛んでしまえば、ランタン渓谷の良いところだけを歩くことになる。しかし、このアプローチを苦労したからこそ、同じ花でも標高が低ければ背丈もあり花の色も薄く、高度が増して行くほどに小さくなり花の色が濃くなる変化に気がつくし、照葉樹林地帯の大きな樹にシダ、ラン等が着生して深い森を作っている様子、それを過ぎると谷もV字形からU字形になって明るく開けて、ヒマラヤの山々が見え始め、やがて花咲く草原に至る。山の構造を知る貴重な体験であった。

 それと、この厳しい自然の中で人間が生活していること、コース中には休憩場に丁度良い距離間隔で村落があり、またチベット仏教に関するチョルテン、マニ石、メンダン、マニ水車を見るにつけ、人々の篤い信仰心を感じ取られる。馬、ヤク、ののどかな放牧。自然と共に生きている人々は、人間が考え出すことが出来る知恵と力をフルに使っている感じがした。  心配であった高山病の症状も出なかった。これも麓から登ってランタン村で2泊して高度順応を慎重におこなったことが良かったのかも知れない。真空パックになっている嗜好品やカステラ等が高度を増すにつれて包装袋がパンパンに膨れるのを見て人間も高度障害が現れれば顔がむくむ、ということはこのような事なのだと、気圧の影響を目で確かめられたことも面白く有意義であった。

 最後に「黒犬」の存在。麓からランタン村までまるで飼い主に道案内をしてもらっているようで心温まる経験であった。誰の犬、というわけではなさそう。丁度Eさんが読んでいたシェルパ・斉藤著『犬と旅に出よう』(新潮文庫)の「ヒマラヤの犬」の項で「牛も鶏もみな、放し飼いで自由にのんびりと生きている。誰の犬、という家族観があまりなく、集落共有の動物として暮らしている犬が多いようである。」と書いており、彼もまたアンナプルナで私達と同様の経験をしている。『ヒマラヤ・ランタン花紀行』の著者も“ネパール犬チベ”に付き添われた経験をしている。自分の案内の役目(?)を終えると、自ら引き返して決してトレッカーに別れの気持ちの負担をかけない。確かに共有なのかもしれない。ダワさんやポーター達の可愛がり方をみてもそう思った。


ランタン紀行